序文

 眼鏡に白ステッキ、モグラの地上探索旅行さながら、リュックサックに、七つ道具を詰め込み、水筒姿で、古今東西の遺跡を訪ね歩き、考古品、美術品、絵画彫刻に、龍宮城の浦島太郎曰く、「時」を忘れて、熱中したものです。

 と共に、時代の流れを、流れの方向に、過去から現代、現代から未来へと継がれていくのは普通のことです。

しかし、それとは逆方向に、「時」の流れを未来から現代へまた現代から過去へと逆流しながら、「時計」の針を反対に回しながら、何故このように変貌していったのかを、自分なりに解釈し直すのは、芸術家にとって大切なことです。

ジョット(1266-1337)からルネッサンス期(15-16世紀)へと移り変わる美術史の流れを、後世のルネッサンス期から前世の中世紀へと、未来から過去を、白紙状態から、ジョットの絵を予感するのは芸術家の見方です。

 写しに成って自分のほうに近づいてくるのがよいですね。 劇的なショックな出来事は誰にも、大写しに見てしまうものです。「驚き」と「感動」は似かよった生理作用と思います。肉体的な「驚き」作用を「精神」に、精神的な「感動」作用を「肉体」に解釈したいものです。 

「精神」と「肉体」とはどちらが優越するか。「美しさ」と「強さ」とを比較するようなものです。

「抽象」と「具象」の宿命を担って、「精神」は「肉体」に宿るように「抽象」画が「具象」画に宿るように製作したい。

 がすばらしいかといって、すばらしく思えるのは、『作者の意向の働きが汲み取れるときに、そこから生まれ出たものが意向の真似事に終わらずに、別の創造物に成り得た作品だと知る』ことです。

 カデミックと前衛、両者は混じり難い。古典病や現代病と言われる作家病に陥らずに自由に生きたい。

如何にも前衛にもって付けの人が、アカデミックで面白い作品を創りえたとか、全くアカデミックな人がすばらしい前衛作品を創ったとすれば、これは楽しいことです。

 をみて「雛」だ。自動車を見て「菊」だ。屋根を見て「魚」だ。人を見て「蛙」だ。と見えるように成りたいものだ。家を雛に仕立てる必要もないけれども、一つを見て2つの要素が加わると矛盾が生じてくるので嘘をつかなくてはならなくなる。

この嘘ごとが作品を面白くする。 Hiromasa SUMITA